陶工・富本憲吉をめぐって (五)

  「薊の墓」         羽田野朱美

初めて富本憲吉の墓を訪れたのは、十年前、盆を少し過ぎた頃の、残暑の厳しい日だったように思う。墓石は、奈良県生駒郡安堵町の憲吉の生家(現富本憲吉記念館)から、ほど近い富本の菩提寺である「円通院」(廃寺)の一隅に置かれている。

陶工の夫とともに、背の低い笹竹や夏草を鎌で刈り、白菊を生けた。刈るたびに立ち上がる雑草の青い香りの漂う中、手をあわせ、あらためて墓石を見つめた。

おい茂る雑草の中に、自然石をセメントで固めた直径一メートル余、高さ四十五センチほどの石まんじゅう形の墓が四つ並ぶ。向かって右側の二つが父母、左側が三年後に他界した一枝夫人。その間に挟まれて憲吉の墓があり、石碑には「富本憲吉の墓」と刻まれている。すぐ近くに住んでいた郡山中学の同級生で、のちに大阪大学長を務め文化功労者となった親友・今村荒男の筆という。遺言によって、戒名はない。

「美術家の墓標」京都新聞社一九九三年P.76

確かに、「遺言によって」、富本は墓をつくらないことを望んだ。彼は自作の陶器のひとつひとつが、自分の魂のかたちであり、「墓標」であればよいと考えていた。

葬儀の形式を一切排されたし。死後直ちにその侭白木綿を以って全身を巻き火葬す可し。墓所を造る可からず。骨灰として火葬所に捨てられ度し。法律が免さざる時は行き倒れ人等を葬る共同の墓に捨てる可し。多くのわが作品を墓と思われ度し。

(富本の遺言 抜粋)

「富本憲吉の墓 石たちの象徴 1」足立巻一

美術工芸 四三二号 一九七四年九月PP.96-97

遺言書は死の十年前、昭和二十七年八月十八日、避暑先の岡山の温泉宿で書かれたものという。当時六十六才の富本は、京都泉涌寺の鈴木清の工房を借り、彼の代表的な模様の一つとなる羊歯の葉の連続模様を完成し、仕事の上でも充実した頃だった。

富本が遺言書の筆を執った時、東京・祖師谷の家族と離れてから七年目になろうとしていた。また、これを書く富本の傍には、あたらしく寄り添う女性の姿があった。手紙の全文に接していないので、この抜粋からしか判断できないのだが、どこか、漢詩文にも似た凛々しさを含む文面に漂うものは、西行の「花のもとにて…」の詩歌に通ずるような、自分の存在一切を世俗から切り離し、自然の大きな流れのなかに任せてしまう澄明で確固とした心の有り様である。

豊かな才能と個性、既成の工芸美を超え、新しい工芸を創り出そうとする表現力と勇気、忍耐、勤勉。社会的な賞賛と地位、芸術家としての評価。こうした稔り多く輝かしいものに恵まれながらも、晩年の富本が突き詰めて悟ったものは、「独り、ただ陶器をつくっていく魂、それさえあれば十分だ」ということではなかったか。

そしてその決意は、奇しくもこの、石だけを積み上げた、極めて簡素な墓からも感じられる。これは、憲吉自身が三十代の頃こしらえた父の墓の形式を踏み、遺族によってつくられたものという。単純な美しさを持つこの墓は、通常見慣れた墓の印象とは異なり、小さな塚か墳墓のようにも見える。

富本は自分の墓の残ることを望まなかったが、彼という人間や作品に心惹かれる者、彼のように創作をする者にとって、心の拠り所(巡礼の場)でもある。

今も私は、生きていく上での行き詰まりや、ささやかな研究における難所に陥った折にこの墓所を訪れ、石の下に眠る憲吉、あるいは女性運動家であった妻の一枝に語り掛け、応えを求めることがある。

「いつか、あなたがたの大切にされた陶様に、お目に掛れますように。」と願ったのは、四年程前のやはり晩夏だったか。憲吉の次女で、ピアニストの富本陶氏にお会いし、陶工であった「父」についてのお話を伺いたかった時のことである。私は誰の紹介状も持っていなかったが、これまで書いていた富本についての文章を添え、氏にお便りを出した。

「ええ、いいですとも。是非いらして下さい。家は、父の植えた大きな欅が目印です。」と御返事を頂いたのは、翌年の春、桜の頃だった。私は憲吉と一枝の墓所での「お願い」を思い出し、密かに心の中で感謝した。

「父は深く、母を愛していました。そして、私も、姉も、弟も、みんなを愛してくれました。本当に、父の陶器はうつくしい、ほんとうに…。なかなか安堵のお墓には行けないけれど、この欅が父や母たちのお墓のように思って、毎日見上げて祈っているのよ。」

花模様のブラウスで身を包み、漆黒のグランドピアノを背景に、そう生き生きと祖師谷の自宅で語られた陶氏も今は、かつて幼少を過ごしたこの安堵の墓所で、両親の隣に眠っている。

 研究会では、毎年富本の命日である六月八日前後の日曜日、「薊忌(あざみき)」を開いている。墓所の管理は富本憲吉記念館とは別であるが、館長の辻本勇氏、副館長の山本茂雄氏、研究会誌を編集しておられる杉瀬公美氏を始めとして、会員の方々が集って清掃し、その後館で研究報告や、新収蔵品の鑑賞の時間を持つ。

 墓前に生ける花は、富本が愛した野薊である。この時期、夏の薊が山野にいっせいに紅をさすが、年によっては盛りを過ぎたり、あるいは農家の夏草刈りのため、手に入らないことがある。奥山に住む私も、できるだけ花を求めて歩くが、今年はあてにしていた近所のゴルフ場の草刈りが早めに行われて、わずかしか摘めなかった。

薊の少ない時は、他の花―白い孔雀草や蛍袋―なども持っていったが、やはり富本の墓には、彼の気質を写し取ったように凛とした薊の花が似合うように思う。

草を分けて太い茎をねぢ切つた。切れ目から汁が流れる程新鮮だつた。

逞しい薊一輪、自分の焼いた白磁の壷にさして眺めて居ると、貧乏も少しは忘れる、薊のひと茎。

「製陶餘言」『製陶餘録』

文化出版局 <新装復刻版> P.111

「今年は薊が少なくて。宮本さん、来て下さるといいけれど。」と、当日記念館の庭先で心配していると、汗を拭きながら、大きなバケツにあふれんばかりの薊を挿して、宮本さんが現われた。彼は、伊賀の丸柱で陶器を仕事としている。急な用事が入って来られない限り、遠路毎年欠かさず花を持参される。

山本副館長が、「やっぱり、丸柱の薊はきれいだね。空気と水がきれいな所だからかなあ。」と感嘆される。

葉は虫喰いの跡もない瑞々しい濃い緑で、刺の鋭さに驚くほど、生き生きと美しい。深い紅色の花は先端におしろいのような花粉を戴き、凛々しく顔を上げている。

毎年生けた薊は、やがて綿毛を持った種を風の中にほどき、種は土に落ち、墓所のあちこちで新しい薊を芽吹かせた。そして再び薊忌の巡る頃にそれは、富本の墓前で花を開かせるようになった。花はあたかも、上背のあるすらりとした富本の姿のように思われた。

だが、今年の薊忌のことだった。墓所の管理の問題からか、崩れかけた年代ものの土の塀は、真新しいコンクリート塀に代わり、石塚を包んでいた夏草のかわりに、白い砂利石が敷き詰められていた。また、墓石に影を落としていた樹木も、そして富本の姿と重なりあったあの薊の株も無くなっていた。事情を初めて知った人の殆どは、ただ黙って、刈り取る草もないまま鎌を持って立っていた。

「また、この薊が種を落とすでしょう。」と誰かが言い、憲吉の両親に、憲吉に、一枝に、そして陶氏にと花が供えられていった。

おそらく、富本はこう語るだろう。

「いや、墓などはどうあろうと問題ない。ただ作品が私の魂であり、墓なのだから。」

素朴な美しさを持つ墓石はそのままだが、墓所はもう夏草が頻繁に生い茂ることのない、整備されたうつくしさに変わった。ただ、どこか微かな寂しさのようなものを味わったことも確かだった。一年に一度きりの、ささやかな行ないではあるが、草を刈りながら、樹の枝を剪定しながら、富本の思い出や仕事を偲び、慕う者にとって、薊がひとり生えしていたあの墓も彼の作品と同様、かけがえのないものとなっていたことにあらためて気づかされたのである。

だが、今年もまた花を終えた薊の綿毛は風に飛び、地に落ち、再び新しい芽を吹かせることだろう。薊はそんな「逞しい」花である。

(はたのあけみ 富本憲吉研究会会員 )

 

本文中の富本の年代に関する事項は、「近代の陶工・富本憲吉」辻本勇 (ふたばらいふ新書)中の「富本憲吉年譜」(山本茂雄編)を参照した。

挿図は「陶匠大家作品展覧会図録」(昭和十年 上野松阪屋 ・筆者所持)の表紙と、富本の出品作「土焼刷目薊模様壷」

下写真は筆者撮影(九十一年頃)。向かって右が憲吉、奥が一枝夫人の墓。