劉生の見た京都画壇  林哲夫

 岸田劉生は、大正十二(一九二三)年十月三日、京都市上京区南禅寺草川町四

十一番の貸家に入った。関東大震災によって倒壊した鵠沼の住居を捨てて、およ

そ一月後のことである。当時の暮らしぶりは『劉生繪日記』のなかに事細かに描

かれている。その絶妙な挿絵と簡潔な文体による日記はちょっと比肩するものの

ない記録芸術である。とにかく面白い。本稿では、京都滞在中の劉生を取り巻く

画壇の周辺、とくに人物寸評に焦点をあてて拾い読みしてみたいと思う。テキス

トは龍星閣の三巻本(一九五三)および岩波書店の『岸田劉生全集』(一九八

〇)による。

画家たち

 大正十二年十一月十五日、大阪毎日新聞社主催「日本美術展覧会」のための鑑

別会(審査会)が京都で行われた。その初日、審査員だった劉生は梅原龍三郎と

連れだって審査会場(岡崎公園第二勧業館)へ向かった。《有島(生馬)、安井

(曾太郎)、藤島(武二)、金山(九平次)、滿谷(国四郎)、山下(新太

郎)、小杉(未醒)、太田(三郎)等の人來てあり、和田(三造)、岡田(三郎

助)も兩人は明日來る由》。審査終了後、京都ホテルで小宴があり、それが果て

て《榊原(紫峰)君と同車にて自動車で送らる》、ここまではまずまずの機嫌だ

ろう。しかし翌日になると一転、《鑑別はかなり不愉快であつた。殊に有島には

かなり不愉快を感じる》と苛つきを隠さない。前途多難を思わせる。

 劉生が新門前縄手に住んでいる吉川観方を最初に訪ねたのは十二年の十一月二

十日である。美術批評家の田中喜作が「変な人」だと紹介してきたのに対し《別

に變でもない。へんと云へばへんな感じの人ではあるが》と初対面の印象を書き

留めている。観方吉川賢次郎は明治二十七年生まれ。絵画専門学校を出た後、松

竹合名会社に入社。大正十二年に「故実研究会」を創立し、風俗研究と資料蒐集

に打ち込んでいた。要するに劉生と共通する趣味を有しており、木村斯光ととも

に、京都における美術品蒐集のライバルとなる存在なのである。

 斯光木村健吉は明治二十八年、錦小路柳ノ馬場に生まれ、師は菊池契月。帝展

無鑑査を経て戦後は日展委嘱になり昭和五十一年に没している。やはりこの時期

には劉生や甲斐庄楠音に通じる退廃美を示す画風であった。劉生・観方・斯光の

三人は年齢も似通っており、なかなかに面白いどたばたトリオである。例えば、

大正十三年二月六日、観方は斯光が劉生の悪口を言っていたことを劉生に伝え、

《はじめは余に好意があるのかと思つたところ少しも人間のいゝ心を持つてゐ

ず、卑屈でいやな感じがして閉口》などと蔑まれている。ただ、そう聞いては黙

っていられない。劉生は真意をただすつもりで即刻斯光を訪ねたところ、ちょう

ど斯光宅に中国の古画が届いた場面にぶつかった。悪口のことなどすっかり忘

れ、ぜひ一枚譲ってほしいなどと迫ってはすげなく断られてしまう。酒が出てよ

うやく観方の話になり、《結局觀方が一番卑屈な男である事が解る。木村も小人

だが觀方は一番イヤだ》で決着している。

 劉生は弟子以外の同時代の絵についてはほとんど記していないけれども、その

理由は簡単で、《帝展の招待日なので行つてみる。どれもこれも愚劣なり》(大

正十三年十一月二十六日)ということである。ただ、《院展といふ會は仲々いゝ

美術家としての素質を持つた人もゐるが、皆囚はれてゐるのが氣の毒だ。速水や

富取、小牛田等といふ人は仲々いゝところがある》(大正十三年十月二十四日)

とも。この院展は再興第十一回日本美術院展覧会(岡崎公園第二勧業館)で、速

水は速水御舟(「春晝」など八点出品)、富取は富取風堂(「唄の師匠」「踊の

師匠」出品、劉生好みの浮世絵風である)で間違いない。小牛田はおそらく小茂

田(青樹)の誤りだろう(「花石榴にカナリヤ」など三点出品、以上『日本美術

院百年史』日本美術院、一九九五による)。

 直接、絵についてではないが、大正十三年十月一日、木村斯光を訪ねたくだり

は興味深い。いわく《まだ繪が出來ず、兄弟妻君大ぜいがゝりでやつてゐた》。

展覧会間際のドタバタが目に浮かぶようだ。この一月後、斯光は劉生にお茶屋遊

びを手ほどきすることになる。そして相当に親しくなった大正十四年六月二十日

には斯光への義理から「菊池塾」の展覧会に出かけている。《木村斯光君や、板

倉君、平米君、松斎君、登内君其他の人に会ふ。麦仙(僊)や小野竹喬君にも会

ひビールなどのんだりして話し、夕方帰宅》。

 堂本印象の自宅へも斯光たちと訪問し《土偶の樹下美人》(唐俑?)を見せて

もらっている(大正十二年十一月三十日)。印象の人物については何も感想はな

く、ただ一言《中々いゝ家也》とだけ。お見事。

 土田麦僊はさきに述べた鑑別会の初日に《土田麥僊が土呂畫に感心して百圓で

買つた話などあり》と書かれている。大正十三年五月十二日、岡崎公園の府立図

書館で開催されていた「西洋画の影響をうけたる日本画及支那画展覧会」(劉生

所蔵の土呂畫など出品)の会場でたまたま劉生は麦僊に遭い、自宅へ誘って自ら

のコレクションを披露している。唐画や岩佐又兵衛などを見せながらいろいろな

話をした。結論はこうである。《この人畫事はまるで駄目、いゝ人ながら本當の

事は分る力のない人也》。

 金島桂華は望んで劉生の家を訪れている。大正十三年九月二十六日。《金島桂

華氏來訪、屏風など出してみせる。この人文樂の人形に似たり。帝國美術院千圓

の賞金の話など出る。こつちにはお鉢まはらぬ事うけ合ひ、つまらなし》。「

氏」を付けているところに注意。

 『京都洋畫の黎明期』(高桐書院、一九四七)の著者黒田重太郎には大正十三

年六月二日に京都ホテルで会っている。改造社の山本実彦が京都の文化人ら三十

人ほどを招待した席上でのこと。《上田敏博士其他、津田青楓、黒田重太郎等に

紹介される。めしになり山本が醉つて少しくだを巻いたので少々白ける》。な

お、昭和初期までの京都洋画壇の歴史を叙述した『京都洋畫の黎明期』に劉生の

名前は見えない。

 津田青楓は何度か登場し似顔絵もある。街中で女連れのところを見かけたり、

電車中でばったり遭ったり。大正十三年九月五日、劉生は志賀直哉と谷川徹三に

誘われて宇治へ行ったが、そのときにも偶然出会っている。《橋の上で長髪の

人、畫家らしい人が景をみてゐる、津田青楓也。志賀と別懇の樣にて一緒に花屋

敷へ行くことになる》。後年(大正十五)、津田や近藤浩一路らのグループ、三

条会展に出品しているので、悪い印象は持たなかったようだ。この日の日記は

《今日は一日樂しくくらした》と締められている。

 大正十三年七月一〜三日、劉生は大阪心斎橋の書画屋松井松太郎で個展を開い

た。このとき会場で何人かの画家に会っている。小品を買ってくれた小絲源太郎

は《この人好人物也》。当然であろう。しかし、小出楢重に対しては手厳しい。

《根津さん夫婦にて來る。小出楢重同伴也、この男下人也》。ついでに言えば、

鍋井克之は大正十三年十一月九日に劉生宅を訪れている。第一印象は《鼠に似た

人也》。鍋井には申し訳ないけれど、言い得て妙なり。

 ところで、このとき劉生は個展の合間に心斎橋筋をぶらついた。その描写が大

変に興味をそそる。《至る所、現代の浮世繪也、面白くオツサン堂といふに寄

り、ズゞ屋といふに行く、千日前のほとり也。この邊殊にうき世繪也、ズゞ屋の

主人といふのは一寸珍しき面白き人間にて馬鹿に安し、ガラス繪の美人畫あり、

中々よろし、一圓五十錢の由》。オツサン堂は乙三洞ともいい、千日前でオリジ

ナル版画や美術書籍を扱っていたらしいが、実態は不明。ただ乙三洞主人は雑誌

『柳屋』の表紙画を描いている。絵心もあり、柳屋主人三好米吉などとも親しく

していたようだ(橋爪節也氏のご教示による)。

 中川一政も快く思われていなかった一人である。大正十三年四月二十四日、

《夜食してゐたら中川一政と柏木が來訪、十日程前に來てゐて、近藤浩一路のと

ころに來てゐた由。明朝早く歸るとて夜十時位迄話して歸つたが中川らしいやり

方で一寸いやな氣がした》。同じく九月二十一日、雑誌『改造』が届くと中川の

文章が掲載されていた。《中川一政が支那畫論の事を書いてゐるのは氣どりたが

るくせが出ていや味也》。どうも反りが合わなかったようだ。それは中川も感じ

ていた。《私は漸く岸田劉生と自分との相違がわかつて來た。私は波を立てゝも

すぐに水平を欲する水の心を持つとすれば、岸田劉生は土石を築いて山を作る人

であると考へる》(「岸田劉生の事共」『美術の眺め』三笠書房、一九四三)。

たしかに気取っている。

 劉生は目下のものにはやさしい。椿貞雄をはじめ弟子や取り巻きなどに対して

は面倒見が良かった。同輩のなかでもっとも良く書かれているのは木村莊八であ

る。大正十三年六月一日に木村が京都へ来たときなどは京都駅まで迎えに行って

いる。木村はこのとき十日まで劉生宅に泊まったが、その間一緒に古画を見た

り、南座で勧進帳を観たりして楽しく過ごした。悪口らしきものは一カ所だけ、

《例により約束をちがへる男だ》。それにしてもズバリとくる。

 梅原龍三郎も好かれていた。当時彼らが属していた春陽会内部での岸田排除の

動きに反対していたということもあるだろうが、例えば、《梅原より來信、入札

がうまく行かぬとて大に落膽、病人の樣になつてゐる等あり、面白き性質の男也

とて大に快感に思ふ》など、親愛の情にあふれている。

 

その他の人々

 画家以外にもやり玉に上げられている者は少なくない。当時の京都で最も知ら

れたコレクター内貴清兵衛も劉生にかかってはひとたまりもない。《内貴といふ

人は自慢氣の強い半可通な嫌味の人物にて、一寸閉口なれど元來の人は好いのに

て、さういふ點にふれてゐると氣持はいゝ。大地震の後だ仕方がない。少し我ま

んして利用してやる可しと不愉快のところは眼をつぶつてつき合ふつもり。つき

合つてゐる中に感じのよくなる人間らし、かんたん人種也》(大正十二年十月十

九日)。しかし、絵を買ってくれればたちまち評価は変わる。《麗子の半身の立

像十號(春陽會出品)をとも角千圓に買つてもらふ事にし、柿とみかんにざくろ

の南畫横物を畫會の禮において歸る。内貴さんはいゝ人だと思つた》(十二月十

七日)。清兵衛の弟富三郎の方が気は合ったようだ、《おとなしい物の分つた人

らし》(十二月十一日)、《畫會の事たのむ。承知してくれる》(大正十三年五

月四日)などと出ている。

 画商では森川喜助がもっとも頻繁に登場する。さきの松井での個展も森川の紹

介によるものだった。大正十三年十一月、森川は大阪西区江戸堀南通一の二二に

森川美術店を開店するが、それにあたって劉生は看板の下絵を制作し開店の口上

も執筆した。大正十三年七月二十二日《いよいよ森川美術店をはじめるとかにて

看板の事や何か相談をうける》。鵠沼風景十二号(三百円)など自作の絵を買わ

せることはもちろんだが、弟子たちからはじまって、梅原や木村荘八にまで絵を

頼んでやっている。九月十六日には《森川氏の希望にて看板の畫をかいてやる。

麗子立像にて又兵衛風、一寸面白く出來たり》。十一月二十九日には《丁度余の

下繪をかいた招牌が出來てきてゐた》。挨拶状の日付は《十一月吉日》(全集、

第十巻、四一三頁)である。しかし劉生の森川に対する本心は《自分の都合のわ

るい事は決してしない大阪の商人コン性が少々いや也》(九月十六日)、《森川

氏は少々不愉快だが、先方も小心の人故、無理もなし、三百圓入らぬとまごつく

故、まあなだめておく》(十一月二十七日)というようなものであった。

 骨董商もいろいろ出てくるが、ここでは省く。それよりも、画材商や表具屋に

注意したい。洋画材料では寺町の「山本畫箋堂」がもっとも頻繁に出てくる。大

正十二年十月二十一日にはこうある。《畫箋堂の番頭の神保君來る。もと竹見に

ゐた男也》、《麗子と同型のモデル人形あつらへたりする》。また「葵屋」とい

う店もあった。《畫布のいゝのあり、殘つてゐる全部を譲つてもらふ。チャパス

紙があつたので、あるだけ九枚とる。これはずつと前から文房堂其他で求めてな

かつたもの也》(大正十二年十月二十六日)、《水仙の畫かいてゐたら葵屋の番

頭が来て、絵を買ひ度いといふ客あり余の絵を買ひ度い由、本当によかつた》

(大正十四年十月二十日)などと出ている(絵は売れなかった)。画箋堂は今も

営業しているが、葵屋は現在の電話帳には載っていない。表具屋では山田永昌堂

が出入り業者だった。大正十三年九月二十八日には山田の仲介した又兵衛風二枚

折屏風を見せられて一目気に入り、三十日には家に持ってこさせたが、ゆっくり

鑑賞してみると不安になってきた。吉川観方を呼んで屏風を見てもらう。案の定

「悪い」と言われ、あわてて返品するなどということもあった。現在の電話帳に

山田永昌堂は見当たらない。他に御幸町御池下ルの表具師「横井秀二郎」と画絹

屋「大畑」の名前も見える。後者は大畑後素堂(新町竹屋町上ル)であろう。

 その他、注意をひかれる登場人物を数人挙げると、まず内藤湖南がいる。大正

十二年十二月十六日、親戚の岸田太郎と一緒に内藤宅を訪れた。当時、湖南は上

京区田中野上町二十に住んでいた。《内藤さんは余の思つてゐた感じの人とはち

がふ、元氣の人だ。父吟香を知つてゐて余をよく似てゐるといふ。宋畫冩生畫が

好きだと云つたら先年渡來、當地の藤木氏所蔵といふ畫帖の寫眞をみせてくれ

る》、《石田のいゝ畫帖、其他いゝものみせてもらひ夕方辭す》。湖南はそのと

きすでに『明清書画譜』(黒川美術研究所、一九一六)を公刊していた。その鋭

い鑑識眼は湖南が長尾雨山とともに蒐集を扶けた「阿部コレクション」によって

証明されている。

 大正十三年十一月十六日には詩人佐藤惣之助が立ち寄った。《この人の訪問を

うけるのは實に何月ぶりか、琉球から臺灣に旅行してあちらの女との關係など話

す。この人の女に關して無茶なのにも全く驚く》。やはり似顔絵も添えられてい

る。

 宮武外骨も名前だけだが登場する。大正十三年十月二十七日、大阪の《だるま

やにて外骨の變態知識八冊買ひ》、三十日に《宮武外骨の變態知識をよむ。雜誌

とる事にし、外骨氏に手紙かき送る》とある。古川柳研究雑誌『変態知識』(半

狂堂)は同年一月に創刊され十二月まで続いた。すでに東京帝国大学法学部嘱託

となり江戸風俗の研究に従事していた時期で外骨は大阪を去り上野桜木町に住ん

でいたが、劉生の浮世絵嗜好に共鳴する人物であろう。

 ところで、岸田劉生という男を劉生自身はどのように評していたのか? 中川

一政は、ある京都の雑誌に、自分の似顔をかいて「これでなかなか人情にもろい

男ですよ」と添えていた、そう証言している(前掲書)。たしかに、日記の端々

にもそのことはうかがえるように思う。

 

プラトン社・松阪青渓

 大正十二から十三年にかけては劉生も文筆に精を出した時期で、改造社や岩波

書店の編集者が頻々と訪ねてきている。なかでも、もっともしばしば触れられて

いるのがプラトン社の松阪青渓である。松阪については芦屋市立美術博物館の明

尾圭造氏が「雅俗を遊ぶ―編集者松阪青渓とその軌跡」(『モダニズム出版社の

光芒―プラトン社の一九二〇年代』淡交社、二〇〇〇、所収)に詳しく叙述され

ておられるので、それに拠って簡単に紹介する。本名寅之助、明治十五年に大阪

の土佐堀に生まれ、大阪朝日新聞に勤めた後、大正十一年にプラトン社の雑誌

『女性』創刊にともなって発行人となる。同じく『苦楽』(大正十三年創刊)の

編集にも携わり、谷崎潤一郎、佐藤春夫、村上華岳などと親しく交わった。個人

雑誌『街路樹』も発行している。プラトン社を退いた後、高島屋に入り『百華新

聞』などに関わった。『京洛林泉古寂』(街路樹社、一九三四)など著書も多数

ある。以下、青渓の登場するめぼしい箇所を引用してみたい。

 大正十三年六月二十二日《日記つけてゐたらプラトン社の松坂青溪といふ人來

る。一昨夜留守に來て三越の講演をたのんで行つたのだが、今夜その返事に講演

料五十圓以上ならといふ事で返事かいたが、まだ出してゐないことを思ひ話して

ゐる中にいやになつたので、ことわつてゐたが結局承知させられた。その人が歸

つてからハガキ出したことがわかり、かけ引きした樣になり大に困つて蓁をポス

トへやつてハガキ返してもらはうとしたりしたが、結局それも駄目で、仕方なく

又ハガキ書く》。「松坂」は龍星閣版の表記のまま、全集版では「松阪」。「松

阪春久」の名もよく登場するが別人。この三越での講演は七月二日に行われた。

 

 大正十三年八月二十八日《松坂青溪より松坂著旱天月光の二冊送り來る、ひろ

ひ讀みしたら噴き出した。可愛氣のある男也、「女性」送り來る、「苦樂」もと

もに送りたりと言ひ來りしも、「女性」もう一冊送り來る。まちがへる也》。

「旱天」「月光」は《松坂著》というからには雑誌でなく単行本であろう。

 大正十三年九月十六日《松坂青溪君來訪、津田君歸る。松坂君に同君個人雜誌

も表紙かいてあげる。原稿依願例の如し》。おそらくこれが明尾氏の論文にその

表紙写真が出ている『街路樹』第四号(大正十三年十月)であろう。

 大正十三年九月二十一日《今日は松坂青溪君が原稿をとりに來るといふ。とも

角書けるだけ書かねばと机に向かふが、どうも思ふ樣にかけない》、《原稿かい

てゐたら松坂君來る。原稿二十五日迄のばしてもらふ。しばらく話して插畫に綱

引と魚賣女の寫眞持つて歸る》。やはり明尾氏の論文に引用されている青渓の日

記抄「九月の日録/九月二十一日」に柳宗悦宅から劉生宅へ回ったことが記され

ている。当時、宗悦も地震のために東京を離れて上京区吉田下大路に住んでい

た。なお前出の志賀直哉は震災以前から京都におり、この頃の住所は市外山科村

竹鼻である。青渓いわく《岸田氏は初期肉筆の浮世絵に就いて深い憧憬をもつて

ゐる。この日も床には若衆が五六人ばらばらと立ち並んで悠々寛々としてどこか

の花見へ行くらしい外出振の絵がかゝつてゐた》、《岸田氏は斯うした初期の浮

世絵ばかりでなく、唐画も沢山もつてゐる、南禅寺山を向ふに眺めて明るい書斎

で、氏が清玩の古画を見るのは気持ちがよい、ある幸福さを感じる》(『モダニ

ズム出版社の光芒』、二六一頁)。ここで青渓が触れている初期肉筆画の「寛永

花見図」と「店頭往来」はその前日に劉生宅に届いたばかりだった。《綱引と魚

賣女の寫眞》もやはり劉生コレクションのものである。

 大正十三年九月二十五日《十一時頃松坂君來る、結局原稿を二十七日か八日に

持つて行くことゝして暫く堺の若衆繪馬其他の話などして松坂君歸る》。

 大正十三年九月二十九日《プラトン社に行く、松坂君に會ひ原稿渡す。原稿料

は明日にしてくれとのこと承諾する》。この日、劉生は天下茶屋の友人宅へ泊ま

り、翌三十日、前出の森川美術店から原稿料の催促をしている。《プラトン社へ

電話をかけたら社長がまだ來ぬといふのでイライラして待つ、二度目の電話で一

枚六圓にまけてといふから斷る、やがてやつて來る。四百圓うけとる》。

 大正十三年十月十八日《松坂君に原稿出來てゐるだけ三十枚渡す。「女性」十

一月號、浮世繪論の出てゐるのをうけとる》。浮世繪論とは「初期肉筆浮世絵に

ついて」で、十一、十二、一月号に亘って掲載された。後に加筆され『初期肉筆

浮世絵』(岩波書店、一九二六)として出版されている。

 大正十三年十月二十六日《十二時頃松坂春(ママ)溪君やつて來る、昨夜は暁

方の二時迄おきてたうとう原稿かき上げたのだが、朝床の中で、もう少し書き足

さねばならぬところを考へたので、松坂君を待たせて三枚程かき足す。四十六枚

となる。前に渡した分とまぜて今日は七十七枚となる、五百圓程かせいだ譯也。

松坂君の希望にて插畫に余所藏の勝川春章の役者繪版畫をうつしてやる》。この

数字から計算すると原稿料は一枚六円五十銭ほどになる。プラトン社は母体が

「クラブ白粉」の中山太陽堂なので、原稿料は惜しまなかったらしいが、大正十

五年に『苦楽』の編集部に入った西口紫溟の回想によれば、幸田露伴の一枚十五

円を筆頭に、佐藤春夫、芥川龍之介、菊池寛、谷崎潤一郎あたりが十円、江戸川

乱歩、川端康成らが八円、田中貢太郎、横光利一、林不忘が六円といったランク

付けになっていたという(『モダニズム出版社の光芒』八三頁)。

 大正十三年十月二十九日《プラトン社へ電話かけにやつたら行きちがひに松坂

君來訪、來月にのせ切れないからとて正月號に半分まわしたといふ。原稿料五百

圓うけとる。原稿料とつた中これが一番多い》。

 大正十三年十一月十七日《朝、床の中にて新聞よんでいたら武者が來たのでお

きる。屏風いろいろ出してみせる。内藤さんへ十二時前に松坂青溪が原稿料を持

つて來るから歸るといふのを、松坂をこつちへ呼ぶ事にして一緒におひるを食べ

る事にする。松坂來る。武者と晝食、松坂歸る》。武者は武者小路実篤、内藤は

劉生の京都の家を世話してくれたコレクター内藤〓(『新字源』4918)土。

 大正十四年一月十九日《今日は大阪へ行く日、用はプラトン社長に会ひ原稿二

百枚かく約束にて千五百円をせしめるとて也》、《プラトン社へ電話かけたら松

阪あり社長は五時頃に来るからとの事少々むつとする》、《五時頃プラトン社の

松阪氏より電話社長まだ来らねど御用をうけたまはり度いとの事、用は会つて話

すが先日一寸話した様な事だと云つたら続きものは困る一度にといふ。一度に二

百枚かける筈もなく又出せる筈もなし、これはつまり多すぎるのをきらふ也、不

愉快な云ひ方也とムツとしてそんなら止めると云つて話を切つてしまふ。但し御

金の方大に困る》。

 大正十四年五月一日《夜松阪青溪君来る。畫会清規十五枚(内十枚女性社長)

渡す。広告の方もよろしくたのむ。社長へやる絵も渡す》。なんとか現金を得た

いがために南画の小品頒布会を計画し、その規約書が出来てきた日。この頃にな

ると茶屋通いも板に付く一方、毎月末の金の算段に腐心するようになっている。

女性社長というのは『女性』の発行人を兼ねていたプラトン社社長中山豊三であ

ろう。

 大正十四年五月二十二日《三条会が今日からあるので美術倶楽部へ出かけ

る》、《松阪青溪君が奈良から志賀を追つて来てゐるのに会ふ。志賀は来なかつ

た》。これが松阪の劉生日記に登場する最後である。志賀直哉を追ってというの

だから、このときにはまだプラトン社に在籍していたと考えてよいだろう。[画

家]